2010年12月30日 (木)

「詐欺の論法」?

『東大生の論理――「理性」をめぐる教室』(高橋昌一郎)という本を読みました。

本書の中で論理学について解説してある一説があるのですが、
そこで紹介されていた「詐欺の論法」というものに、何かひっかかるものを感じました。
「これって、日常にありふれてないか?」と思ったからです。

まず、「詐欺の論法」がどういうものか。

本書の解説では、「実際には四通りの選択肢があるにもかかわらず、二通りしかないように思い込ませて、最終的に思い通りの方向に誘導する」ような論の進め方を「一種の『詐欺の論法』」と紹介していました。

例えば、

「この数珠を買わなければ不幸になります。」

というのは「詐欺の論法」の一つだそうです。

このように問い詰められると

① 数珠を買わない ⇒ 不幸になる
② 数珠を買う ⇒ 不幸にならない

という二者択一の選択だと思い込まされてしまいます。そして
「不幸になりたくない、だから数珠を買おう」
という選択に陥ってしまうことになります。

でも論理的には次の二つの場合も想定することできます。

③数珠を買う ⇒ 不幸になる
④数珠を買わない ⇒ 不幸にならない

つまり、数珠を買っても不幸になることもあるし、
数珠を買わなくても不幸にならないこともあるわけです。

最終的に数珠を買うか買わないかは、個人の自由なのですが、
論理的には四つの選択肢があるにもかかわらず、
二つの選択しかないと思い込ませるところに、
「詐欺の論法」の罠があると言えそうです。

もちろん、数珠や壺を買うかどうか迫られる場面では、
詐欺のにおいをかぎわけることができるかもしません。
でも、四つの選択肢があるのに、二つの選択肢しかないと思い込んでしまうような場面は、詐欺性の有無にかかわらず、日常的にけっこうあるように感じます。

例えばこんな場面。

「これからの時代、英語くらいできないと競争から取り残されるよ。」

「英語」と「競争」のところをそれぞれ、
「いい大学」と「就職」や
「私立中学」と「いい大学」に置き換えてもいいのですが、
こういった類の会話はわりと耳にすることが多いように感じます。

仮に友人から、上のようなことを言われると、
「やっぱ、英語くらいできないとだめだよな。」と考えてしまうのではないでしょうか。

もちろん友人は「詐欺をしよう」とは考えていないのだけれど、

「競争から取り残される」という恐怖心を喚起していること。そして、
① 英語ができない ⇒ 競争から取り残させる
② 英語ができる ⇒ 競争から取り残されない
という二者択一だと思い込ませてしまったところに、
前述の「詐欺の論法」と同じ構造を見て取ることができます。

実際には、
③ 英語ができない ⇒(けど) 競争から取り残されない
④ 英語ができる ⇒(けど) 競争から取り残される
ということも想定されるわけです。

何気ない会話の中にも、「詐欺の論法」が潜んでいるかも、
と思うと、ちょと怖い気もします。

とは言え、発言の揚げ足取りをしても仕方ないし、
論理に厳密になっていたら、何も話せなくなってしまいそうなので、
日常的には意識しすぎない方がいいかもしれませんね。

いずれにしても、
「人をだますと、自分も不幸になる」から詐欺はやめましょう。
(んっ?↑これも「詐欺の論法」?)

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2010年12月12日 (日)

「独服」の時間

「茶 利休と今をつなぐ」という新書を読みました。

千利休を直接の祖とするお茶の流儀には、「表千家」、「裏千家」、「武者小路千家」の3つがあるそうで、その中の武者小路千家の家元、千宗屋さんが、茶の湯の歴史的なことから茶器のこと、茶事の流れなどをまとめたのが、本書の主な内容になっています。

いくつか興味深い話があった中で、「独服」という言葉にピンとくるものがありました。

独服というのは、自分のために自ら点てていただくお茶のことを言い、著者によれば、茶の湯の原点となるものだそうです。茶の湯と禅の関わりを述べた一説で、独服について次のように書かれていました。

他者との関係を云々する前に、まず自分自身としっかり向き合う、いわば「自分をもてなす」ことができなければ、他者の心情を察し、慮り、もてなすことはできません。だからこそ、人を「おもてなし」する前の独服、自分自身と向き合う機会を作るところに茶の湯の原点があり、これこそが禅と共通する部分ではないかと思うのです。

独服を通して、自分自身と向き合うこと。それが他者の心情を察したり、もてなしたりすることにつながっている。

お茶の点前(たてまえ)については全くわかりませんが、自分のためにお茶を(またはコーヒーを)淹れて飲むことはわりと多いです。その時間は、見方を変えればすべて「独服」の時間になるのだと思うと、日常的な行為にも奥行きを感じられるから不思議です。

明日からの喫茶の時間が、さらに楽しみになりそうです。

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2009年8月23日 (日)

一夜を共にする

所属している研究グループの、研修合宿に参加してきました。
1泊2日で「算数」のことについて語りつくすといった内容の、
ストイックでマニアックな研修会です(笑)

その宴会の席で、ある先輩が話していたこと。

こういう研修会をわざわざ泊り込みでしなくてもいいという意見もあるが、
私はやっぱり必要だと思う。
帰らなくてもいいという状況で、夜通し飲んで語り合うと、
だんだんガードがゆるくなって、素の顔が見えてくる。
すると、日頃バカだなと思っていたやつが、やっぱりバカだったと気付く。
そうやってお互いに打ち解け合うことで、
普段の協議の時にも遠慮なく意見が言えるようになる。
酒を飲みのみながら一夜を共にすることが、
実は研究にもつながっているんです。

正確な話の内容は忘れてしまったけど、
上のような話を聞いて、なるほどと共感しました。

会議などの話し合いが効果的に行われるためには、
何を話してもいいという安心感と、
お互いの意見を批判しあえるという信頼関係が必要です。
その土台は、実はこういうところで築かれるものなのだなと実感しました。

一見ムダに思えることが、実は効果的であること。
その一例かと思います。

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2009年8月18日 (火)

学びを組織する

某有名企業による「清掃」に関する研修を受けました。

9時半から16時半に及んだ研修は、
綿密に練られたプログラムにそって進行していきました。
とても充実した内容で得るものが多かったことに加え、
研修の進め方にも工夫が見られ面白い研修会と感じました。

アイスブレーキングをかねたグルーピング。
ジグザグになるような机の配置方法。
ワークショップ型の講習を主軸にして、
一方的な情報伝達にならないような配慮があること。
講習と講習の合間には、ちょっとしたゲームやクイズなどを織り交ぜ、
参加者のリラックスを図ったり、気持ちの切り替えを促したりすること。
「ワークショップ」や「ファシリテーション」関連の書籍に出てくるようなことを、
お手本どおりきっちりとやってくれていました。

手法としてどれも知っていたのだけど、
実際に体験したことは少なかったため、いい経験ができました。
やはり、「知っていること」と、「経験すること」の間には大きな差があるなと実感です。

正直いうと、あまりにもお手本どおりな進め方なので、
白々しく感じる場面もあったのですが、
最後までやり切ってもらえたことで、むしろ清々しさを感じられました。

集団での学びを組織するには、
やはり一人一人の参加率を高めていくことが必要なのだと再認識です。
そのためには、一人一人が考えたり書いたりする時間を確保すること。
そして、考えたことをグループで共有するための仕掛け
(付箋を使ってのマッピングなど)を活用すること。
さらに、全員が協力しながら行う活動を取り入れることが大切なようです。
書き出してしまえばどれも基本的なことですが、
基本を愚直に重ねていくことが、やはり一番の近道なようですね。

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2009年8月13日 (木)

身銭を切る、汗と恥

今週は2つの研究団体の、
全国大会というものに参加してきました。

どちらも安くない費用を払っての参加です。

それでも日本全国から、
かなりの人が集まってきていることに驚きました。

関東近辺に住んでいる人ならまだしも、
北海道や九州など、渡航費・宿泊費をかけてやってくる姿勢には
頭が下がります。

もともと仕事の休みを使って勉強しにくる人たち。
しかも身銭を切っているから、真剣さが違います。
ああいう空気、しびれます。

見渡せば全国区の先生方があちこちに。
話し合いのレベルも高く、理解するのに一苦労ということも多かったです。

ふと、考えました。
5年後、10年後、自分はあの人たちと肩を並べて話ができるだろうか。

まだまだ、足りないものが多すぎです。
でも、目指すべきひとつの指標が見えたような気がしました。

汗と恥を、もっとかかなくては!

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2009年8月11日 (火)

ココ、男

ちょうど時間が空いたので、映画でも観ようと思い立ち
有楽町で「ココ・シャネル」を鑑賞しました。

映画としてはそれほど面白いとは思えなかったのですが、
シャネルという一人の女性の生き様には、興味をそそられました。

レニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリーを観たときにも感じたのだけど、
才能と美貌と激しさを兼ね備えた女性というのは、
それだけで神話的な存在だなと。

大抵の男はそういう女性に惹かれながらも、
一方で恐れを抱くものだと思います。
たぶん自分の存在が、凌駕されてしまうと直感するからでしょう。

だからそういう女性に対しては、
才能を発揮させないように囲い込むか、
あるいは、はじめから白旗を揚げてしまうか、
もしくは、敬して遠ざけるなど、
意識的にせよ、無意識にせよ
それぞれ対応しているような気がします。
(自分自身も含めです)

基本、負けに弱いのが男の性。
同時に、美貌に弱いのも男の性。

美しくて「強い」女性というのは、
男にとってアンビバレントな存在で、
それゆえ、強く惹きつけられるのかもしれません。
そんなこと、映画を観終わって考えました。

個人的には、
ココ・シャネルを着ている人よりも、
ココ・シャネルのような人に魅力を感じます。
(本当に側にいたら、敬遠しているかもしれませんが)

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2009年3月15日 (日)

谺(こだま)しあう声の中

異なった声が限りなく谺しあう世界に、ひとはそれぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの自己の内側でかすかに振動しつづけている、あるなにかをよびさまそうとするシグナル(信号)であろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声となるのである。――武満徹

二十歳を過ぎた頃に出会い、今も傍らに置いていたい言葉の一つです。
ただ最近は、「異なった声が限りなく谺しあう世界」
という言葉に惹かれています。

世界には、想像もつかないほどたくさんの人がいて、
それぞれが様々な言葉を発している。
その声が限りなく谺しあい、
もはや誰が何を言っているかも聞き取れないほど騒然としていて、
その只中に、自分がいる。
そんな光景が、不思議なほどしっくりとくることがあって、
世界と、そこに突っ立つ自分の有様を、言い得てくれる心地よさを感じます。

そして、武満徹をもってしても、
世界は「異なった声が限りなく谺しあう」場所であったということに
共感と安心を覚えます。

「まして、自分なんか」という心境です。

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2009年3月 8日 (日)

「三人姉妹」

昨日は久しぶりの舞台鑑賞
パパ・タラフマラの「三人姉妹」を
体感してきました。

チェーホフを原作とする当カンパニーの代表作で、
海外を含め130ステージ以上こなしているそうです。
僕は初めて見ることができました。

おそらく、男性よりも女性の方が
共感できる作品なのではと思いましたが、
男性の僕も惹きこまれてしまいました。

シリアスに迫ってくる場面があり、
クスクスと笑い出してしまう場面があり、
ハッと息を呑むような衝撃的な場面がある。

それと同時に、
男性の奥底にある
女性に対する敬いと畏れの情が、
ふつふつと沸き立つような感覚がありました。

もう一度味わってみたくなる舞台です。

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2009年2月 8日 (日)

大人の勉強時間

仕事帰りには、
喫茶店に寄り道するのが日課となっています。

夜9時前後の店内は、一人で来ているお客さんも多く、
本を読んだり、テキストを開いたり、
ノートに何やら書き込んだりしている人の姿をよく見かけます。
そんな光景を眺めながら、
見知らぬ人々にひそかな親近感を覚えます。
仕事が終わっても、自分の時間を大切にしている人がいる。
大人になっても、勉強を続けている人がいる。
言葉は交わさなくても、
学ぶ人の姿を目にするだけで、
「自分も」という気持ちにさせられます。

勉強している人は、案外多い
と、最近実感しています。

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2009年2月 1日 (日)

身体のこと

ここ4年くらい
「身体」に興味をもっています。

ただ、
「どうして興味を持つようになったのか」
「身体の何が気になっているのか」
最近人に問われ、
うまく説明できない自分に気づかされました。
そんなこともあり、身体についての今の考えを、
まとめてみようと思います。

私たちは日々、いろいろなことを感じたり、考えたり、
ときには感じないようにしたり、あえて考えなかったりして生きています。

仕事で達成感を得る
転職を決意する
誰かを大切に思う
人間関係に思い悩む
どうしようかと途方にくれる
現実逃避する
などなど。

感じること、考えることは、生きるということと切り離せないもので、
それだけ大切なことだと思っています。
仮にそれらの働きを、「心」という言葉でくくるならば、
「生きるうえでは、心が大切」と言えるかもしれません。
事実4,5年前までの自分は、
「心が大切」という考えを、強くもっていました。

「心」を大切にしていたから、心理学部には入りたくないと思っていたほどです。
心理学について何も知らなかったのですが、
「心を理論に当てはめる態度には、どこか間違いがある」と感じ、
進学先は文化や芸術について学ぶ学部を選択しました。

大学の4年間は、時間を見つけては展覧会や映画館に足を運び、
文化・芸術が与えてくれるものに身を浸していました。
自らも写真を撮ったり、文章を書いたりして、
創作することの喜びや愉しみを知りました。
そんな経験を通して、ますます「心が大切」という考えを
強めていったように思います。
ただその一方で、実社会に適応しにくくもなっていきました。

「今の日本の社会は、心をないがしろにしているのでは」
「効率や利益を優先することで、何か大切なものを失っているのでは」

そんな思いを強くして、身動きが取れなくなりそうでした。
心を強調するあまり、身体が不確かな状態になっていったのかもしれません。
今ふり返ると、卒業前後の2年くらいは、
地に足が着かないままで、何とか生活していたように思います。

そんな折に「身体」という考え方に出会いました。
それまでに、何度か手術を経験したり、
ダンスなどの身体表現にも触れていたりと、
身体に関心をもつ素地があったのですが、
直接的には、竹内敏晴、野口晴哉、野口三千三
という方々の著書に出会ったことが大きかったです。

感じたり、考えたりしている自分も、
現実的には身体を伴って生きている。
今もこうして、「からだ」として存在している。
手と手をすりあわせれば温かく、
胸に手を置けば鼓動を感じる。
いくら心を追ってみても、心は捉えられないけど、
からだは確かに、ここにある。
そしてこのからだが、感じたり、考えたりして、動いている。
その手ごたえの確かさに衝撃を覚え
目からウロコが、5,6枚剥がれ落ちました。

少し難しい言葉を用いるなら、
心と身体を分けて考える「心身二元」の考えから、
心と身体が相互に関係し一体であるとする「心身相即」の考えに
シフトした、ということだと思います。

なので、「心ではなく身体が大切」と考えるようになったわけではなく、
心と身体を一体として捉えたうえで、
より具体的な身体を見つめていく。
そういう態度に切り替わったわけです。

それ以来、
身体論に関わる本を読み進めたり、
ダンスを多く見るようになったり、
実際にからだを動かそうと、
演劇やダンスのワークショップに参加したりするようになりました。
身体に興味を持ったことで、
行動がより具体的になっていったように感じています。
そして今も
身体について、
からだを動かしながら探っている最中です。

では、身体について何を学びつつあるのか。
そのことについては、また機会を改めて書いてみたいと思います。

長々とわかりにくい文章にお付き合いいただきありがとうございます。
最後まで読んでくださったことに感謝です。

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